「食をうたう」
以前、食文化に関するレポートを書いたとき、原田信男先生にはたいへんお世話になった。
といっても、勝手に著作を読み漁り、いろいろと引用させてもらっただけのことなんだけど。
で、原田先生、日本の食生活史研究が専門領域なんだけど、大学院修士課程の頃、日本中世史の勉強に身が入らず、論文など放り出し、評論や詩集・歌集にばかり耽っていたそうで、本人知ってか知らずか、その著作からはそう言うところが滲み出てるようにも思う。
で、今回は、その原田先生が著した短歌や詩を題材とした食に関わるエッセイ。
文章って不思議なもんで、あとがきに、「おかげで、むかし読んだり集めたりした本を読み返し、この際にと思って、かつては手の出なかった詩歌関係書を、まとめて買い込んだりした。歴史の論文とは異なって、興味の赴くままに調べものをし、文章を楽しく書くという機会を毎月もてたことは幸せだった。」と書いてるんだけど、こうした愉しい雰囲気っていうのもやっぱり伝わってくる。
でも、楽しく書いてるっていう割にはその内容はすごく鋭い。本人は詩歌の単なる、しかも偏った愛好者にすぎないっていうんだけど、その内容には脱帽だわ。
で、先生が取り上げた数々の作家の中で、長田弘の『食卓一期一会』の冒頭には、「言葉のダシのとりかた」という詩で飾られている。
かつおぶしじやない。/まず言葉をえらぶ。/太くてよく乾いた言葉をえらぶ。/はじめに言葉の表面の/カビをたわしでさっぱりと落とす。/血合いの黒い部分から、/言葉を正しく削ってゆく。/言葉が透きとおってくるまで削る。/つぎに意味をえらぶ。/厚みのある意味をえらぶ。/鍋に水を入れて強火にかけて、/意味をゆっくりと沈める。/意味を浮きあがらせないようにして/沸騰寸前サッと掬いとる。/それから削った言葉を入れる。/言葉が鍋のなかで踊りだし、/言葉のアクがぶくぶく浮いてきたら/掬ってすくって捨てる。/鍋が言葉もろともワッと沸きあがってきたら/火を止めて、あとは/黙って言葉を漉しとるのだ。/言葉の澄んだ奥行きだけがのこるだろう。/それが言葉の一番ダシだ。/言葉の本当の味だ。だが、まちがえてはいけない。/他人の言葉はダシにはつかえない。/いつでも自分の言葉をつかわねばならない。
この歌にはマイッタ。
そのあと、先生の解説が続くんだけど、詩歌に明るく、日本の食生活史研究を専門領域にしているだけあって、その面目躍如といったところ。
で、この長田弘さんには殊のほか思い入れが深いようで、巻頭にもこんなふうに引用してる。
「長田弘の詩集『食卓一期一会』には、しみじみとした味わいのある作品が多く、本書にも何度か登場することになる。その「あとがき」に、彼は「食卓につくことは、じぶんの人生の席につくこと。ひとがじぶんの日日にもつ人生のテーブルが、食卓だ。かんがえてみれば、人生はつまるところ、誰と食卓を共にするかということではないだろうか」と記している。」
そして、「終章 逡巡の果てに」の最後にこんなふうに書かれている。
「これまで、詩人や歌人・俳人たちの食との関わりとこだわりを見てきたが、それらはあらためて『プレイバック』のフィリップーマーロウ風に言えば、「食べなければ、生きていられない。食べるだけでは、生きている資格がない」ということになろうか(清水俊二訳を改変)。
このレイモンドーチャンドラーの巧みなレトリックに従えば、生きていくなかで、どのように食べていくのか、それこそが、さまざまな人生の味わいなのであろう。本書で取り上げた詩歌はそのほんの一端にすぎない。」
今回こんなふうに詩歌に接し、いろいろとその面白さに開眼したようにも思う。「取り上げた詩歌はそのほんの一端にすぎない」ということなんで、もう少し、この領域にも浸ってみようかなぁって思ってる。
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