2018.06.16 Saturday
「かぼちゃを塩で煮る」
料理のエッセイが好き。
そのうえ、こんなブログを続けてることもあって料理のエッセイをよく読むんですが、その書き手によってすごく共感したり舌なめずりすることもあれば、全く食指が動かず、砂を噛むような気分になることもある。
で、今回の牧野伊三夫さんのは前者、しかも、どストライク。こんなどストライク、「笑う食卓」の立石敏雄さん以来ではないかな。
どストライク。
以前も書いたように、立石敏雄さん以外では、「最後の昼餐」の宮脇檀さんや「家で作れないものは外で食べて、店に負けない皿を家で拵えよう。」の木暮修さんなんかがそうなんですけど、今回の牧野さんは、前の3人と違ってぼくと同年代、もっと言うとこの日とぼくよりも3つほど年下ではないですか。
だから、前3人の話はどうも年長の先人のように読んでたんですけど、今回の牧野さんは、なにやら同じ目線の高さって感じで、距離感も非常に近く感じたわけ。
それでも、この方の腕前、並々ならぬものがある。それはもう、シロウト料理を究めんとする同志ですから、そのあたりの力量はほんとよく分かる。
それに「ビジネスホテルでの調理研究」や「散歩と献立会議」なんかの食欲の赴くままの筆の転び方など、まあ、こんな人が近くにいたらずいぶんと近しく好誼できるんやないかなと。
あと、蛇足なんですけど、文中にも出てくるサイモンとガーファンクルの名曲、スカボローフェアの「パスリ、セージロズマリーアン、タァーイム…」っていうくだり。
巻末の解説で鈴木るみこさんが、牧野さんの台所の調味料の棚に並ぶそれらのハーブのことを取り上げてるんですけど、鈴木さんは「パスリ、セージロズマリーアン、タァーイム…」たちって表現してる。
スカボローフェアの「パスリ、セージロズマリーアン、タァーイム・・・」っていうのは実は娼婦たちの名前だったと思うんですけど、鈴木さんの表現からすれば、さしずめ愛しき彼女たちっていう感じかな。やっぱりどうでもいいことですけど・・・
そのうえ、こんなブログを続けてることもあって料理のエッセイをよく読むんですが、その書き手によってすごく共感したり舌なめずりすることもあれば、全く食指が動かず、砂を噛むような気分になることもある。
で、今回の牧野伊三夫さんのは前者、しかも、どストライク。こんなどストライク、「笑う食卓」の立石敏雄さん以来ではないかな。
どストライク。
以前も書いたように、立石敏雄さん以外では、「最後の昼餐」の宮脇檀さんや「家で作れないものは外で食べて、店に負けない皿を家で拵えよう。」の木暮修さんなんかがそうなんですけど、今回の牧野さんは、前の3人と違ってぼくと同年代、もっと言うとこの日とぼくよりも3つほど年下ではないですか。
だから、前3人の話はどうも年長の先人のように読んでたんですけど、今回の牧野さんは、なにやら同じ目線の高さって感じで、距離感も非常に近く感じたわけ。
それでも、この方の腕前、並々ならぬものがある。それはもう、シロウト料理を究めんとする同志ですから、そのあたりの力量はほんとよく分かる。
それに「ビジネスホテルでの調理研究」や「散歩と献立会議」なんかの食欲の赴くままの筆の転び方など、まあ、こんな人が近くにいたらずいぶんと近しく好誼できるんやないかなと。
あと、蛇足なんですけど、文中にも出てくるサイモンとガーファンクルの名曲、スカボローフェアの「パスリ、セージロズマリーアン、タァーイム…」っていうくだり。
巻末の解説で鈴木るみこさんが、牧野さんの台所の調味料の棚に並ぶそれらのハーブのことを取り上げてるんですけど、鈴木さんは「パスリ、セージロズマリーアン、タァーイム…」たちって表現してる。
スカボローフェアの「パスリ、セージロズマリーアン、タァーイム・・・」っていうのは実は娼婦たちの名前だったと思うんですけど、鈴木さんの表現からすれば、さしずめ愛しき彼女たちっていう感じかな。やっぱりどうでもいいことですけど・・・
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