厨房男

こどもの頃に欠乏していた食の体験を取り戻そうとする厨房男の喰う・呑む・つくる・・・のはなし

「食の社会学」〜パラドクスから考える〜

2019-02-15.jpg最近、ひょんなことからレポートを書く羽目に陥りまして、やたらに本を乱読してる。

だから、ブログで取り上げる本を読む暇もない・・・と書きたいところなんですが、実はそのレポート、食文化に関するレポートなんで、ブログとけっこう重なるところがある。

もっというと、どうせ書くなら食文化に関するレポートにしようと、わざわざこちらへ水を引っぱってきたっていうのが真相。

 

さて、そのレポートを書くにあたって読んだ本となれば、石毛直道やマイケル・ポーランなど、内外含めてもう数十冊にも上るんですが、いちばんおもしろかったっていうか、興味を引かれたっていうか、引用をいっぱいしたっていうのがこの本、「食の社会学」。「パラドクスから考える」っていう副題がついてます。

著者のエイミー・グプティル、デニス・コプルトン、ベッツィ・ルーカルは、いずれもニューヨーク州立大学やインディアナ大学で教鞭をとってる准教授。で、彼女らが「食」にまつわるパラドクスを切り口に、複雑化する現代の食文化のさまざまな側面を検証していく。言ってみれば若手の学者が、近年注目されている「食」をめぐるテーマをめぐり、人類学、社会学、地理学、政治経済学、歴史学といった知見を総動員して論じてるわけ。

章立ては、第1章が「食の社会学」で、この本の原則とこの本における“パラドクス”について、第2章「食とアイデンティティ」では、食べ物がなぜ個人や集団のアイデンティティの中心となるのかを、第3章「スペクタクルとしての食」は、豪華な料理を支える労働は非常に苛酷なことや、フードエンターテインメントを提供するメディアについて、第4章「栄養と健康」では、農業団体や食品産業の利益を保護しつつ、人々に栄養勧告を行う米国農務省の抱えるパラドクスを論じてる。

第5章「ブランド化とマーケティング」では、消費者主権と企業の影響力について、第6章「工業化される食」では、工業的に生産されるハンバーガーなどの食品の安さと、社会的・環境コストの高さというパラドクス、第7章「グローバルフード」では、国境を超え複雑化する食品供給網を論じ、第8章「食料アクセスの問題」では、食へのアクセスの不平等から余刺と不足が同時に起きているパラドクスを、そして終章の第9卓「食と社会変化」では、新たな価値を求めてフードデモクラシーというキーワードで締めくくられている。

 

このなかで、引用したのは、第2章と、第9章なんですが、むしろ引用したところ以外の、食をめぐるジェンダーやLGBTにおける食の分担なんかがけっこうおもしろいなぁと。

たとえば、ゲイやレズビアンのカップルでは、食事のしたくはカップルの間で平等に配分されていないそうで、にもかかわらず、ゲイのカップルでは、料理にあまり関わっていない男性が、自分は料理に関わっていると主張する。

これは、もう一方の男性の男らしさのイメージを強化しようとしているのではないかという考察がある一方で、レズビアンのカップルでは、食事の準備に関わることの多いほうは、そうではないほうの女性らしさを傷つけないために、自分の仕事を控えめに言う傾向があるんだそう。

こういう自分のテーマとは脱線したところにオモシロさが散らばってキラキラしてるわけ。

 

例によって、レポートはまだ七転八倒してるところなんですが、レポートを脱稿してからもう一度あらためて読んでみたいなぁ。

もっとも、この本、近隣の図書館にはなくて、わざわざ大阪府立の図書館から取り寄せてもらったんで、手続きがまためんどくさいんですけどね。

 

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「もものかんづめ」

2018-01-15.jpg

昨年、若くして鬼籍に入られたさくらももこさん。

正直に言うと、ふだんなら手に取ることもなかったんでしょうが、彼女の訃報に接し、あらためて、この本を読まねばって、なんでか思った。

で、そう思って図書館に予約したんですが、あっという間に数十人待ち。同じように思った人がやっぱり多かったんでしょうねぇ。

 

さて、彼女の代表的なエッセイ、「もものかんづめ」。このシリーズ、「さるのこしかけ」、「たいのおかしら」って続くそうなんですが、やっぱり読むなら処女作かなぁって。

で、内容はご想像だおり、ぼくがよく読む食べ物のエッセイでは全くなくって、漫画「ちびまる子ちゃん」さながらのぷぷっと笑えるネタが詰まってる。

でも、その行間というか、合間にフッと、なにやら達観した哲学者のような一面が覗く・・・ような気がする。いや、ひょっとしたら気のせいか。

 

しかし、日常の話から笑いを抽出することから、やりたい放題だった祖父が老衰で亡くなったのをネタに大笑いするっていう、「メルヘン翁」なんかは、実際に考えると、そうとうなタブーに踏み込んでの話ですから、ちびまる子ちゃんさながらのイノセントなセンスっていうのは計算じゃなくて、本能的、いや、やっぱり計算?

 

まあ、あらためて考えるとぼくらの手には負えない、そうとうなスケール。

それを感じさせずにスイスイと書き進んでいる(ように見える)っていうのは・・・

 

もう少し長生きしてほしかったなぁ。もちろん、ぼくのわがままだけど。

 

 

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「本のまとめ 2018」

早いもので、今月ももう中日・・・ていうか、ことし最後の中日やないですか。

というわけで、ここ数年、12月の中日には、その年に読んだ本のまとめをしてるんで、ことしも。

2018-12-15.jpg

1月 「忙しい日でも、おなかは空く。」

4月 「おいしい魚図鑑」

5月 「菊亭八百善の人びと」

6月 「かぼちゃを塩で煮る」

7月 「季節の果実をめぐる114の愛で方、食べ方」

8月 「箸持てば」

9月 「わたしがカフェをはじめた日。」

10月 「おいしい水」

11月 「豚キムチにジンクスはあるのか」

 

毎月読めば当然11冊あるところなんですが、2月に読んだ本がくだらなくって、こりゃイカンと焦ったんでしょ、思わず力んでしまって翌月もハズレ本を選んでしまった。

1月は手堅く平松洋子さんの本、「忙しい日でも、おなかは空く。」を選んだんですがね。

 

なので4月は、「おいしい魚図鑑」。とにかくパラパラ眺めてこりゃいいわって、すぐに判断できたんでね。といってもパラパラ見れば済むような絵ではない。あとでじっくりと堪能させてもらいましたが、とにかくファーストインプレッションでイイって判った本。

 

5月と10月は小説。「菊亭八百善の人びと」と「おいしい水」。

古い昭和なストーリーと新しい昭和なストーリー。

 

純然たるレシピ本っていうのは7月の「季節の果実をめぐる114の愛で方、食べ方」だけかな。

レシピ本って、ここではほんとに紹介しづらい。読むっていうのにレシピ本が向いてない、ていうか、ぼくがレシピ本を楽しく深読みする才覚に欠けてるのかな。

 

問題は9月の「わたしがカフェをはじめた日。」。

7軒の京都のカフェを営むそれぞれの店主に、それぞれのカフェをはじめるまでの経緯や、開店を迎えた日のことなどをインタビューした本なんですが、なんだかこれがミョ〜にオモシロイ。カフェっていいですよねぇ。

 

2018-12-15 001.jpg

そして、エッセイ。

6月の「かぼちゃを塩で煮る」、8月の「箸持てば」、11月の「豚キムチにジンクスはあるのか」。どれもこれもおもしろい。

食に関するエッセイなら何でもいいっていうわけではなくて、決してそうではなくて、おもしろいエッセイと面白くないエッセイは厳然とある。

まあ、ことしは2月、3月に空振りをしたせいか力が抜けて偶然アタリの3連発。

だから、ことしの1冊はその中から、「かぼちゃを塩で煮る」。

どストライク。

その時も、「こんなどストライク、「笑う食卓」の立石敏雄さん以来ではないかな。」って書いた。

 

あらためて振り返って、人生空振りも意味あるんだなぁって。

まあ、ずっと空振りっていうのも困りますけど。

 

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「豚キムチにジンクスはあるのか」

2018-11-15.jpg題名でやられましたね。

豚キムチにジンクスはあるのか、そんなのあってもなかっても別にいいんやけど、それでも、このネーミング、なんかそそられるんですわ。

著者は絲山秋子さん。

いままで読んでなかったけども、文學界新人賞、川端康成文学賞、芥川賞・・・スゴイやないですか。

でも、初めて手に取る本、「豚キムチにジンクスはあるのか」。

 

1作目の「力パスタ」からけっこうやられます。すこしネタバレかも知れませんけど、餅をバターで炒め、レトルトのイカスミパスタソースを加え、ファルファッレと和える。

これ、きっとうまいんでしょう。ぼくは敬遠したいですけど。

想像してみてください。小さめの皿に山盛りにしたら、まわりからこぼれる有様が産廃っぽくって悲惨だとか。

 

で、表題の「豚キムチにジンクスはあるのか」。

豚キムチにこんなジンクスがあるとか、あんなことがあったとか、そんな話はついぞ出なくって、結局、「真実の豚キムチに豚キムチを越えた意味はない。」なんていう結論に達するんですが、それまでのプロセスというか、よもやま話というか、それがなかなかオモシロい。

絲山さんは実は鬱なんだそうで、一時、「痩せすぎて尾てい骨が痛くて座るのも容易じゃない。」って言うほどにも体重が落ちたこともあったみたい。

でも、「その後どうなったかって? 復活して立派になりましたこのとおり。どうだこの腹、ぱんぱん。かなしい・・・・・。」なんて繋げる文が秀逸。句読点の位置、間の詰め方、さすがです。

 

とまあ、こういう感じのが24本。

ただ、絲山さん、料理が好きっていうのがすごくよく分かるんだけど、ぼくのような失敗も数々。まあ、それ自体がネタなんでしょうけど、それが余計に親近感を湧き立たせるんですよね。

 

しかし・・・、イラスト下手だなぁ〜、この人。

 

 

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「おいしい水」

2018-10-15.jpg1980年代の神戸を舞台にした19歳の女性の切ないラブストーリー。

 

著者は以前「ジヴェルニーの食卓」を紹介した原田マハさん。

彼女はぼくとたしかひとつ違いくらいだったので、彼女の描く19歳のラブストーリーは、まんまぼくの体験した19歳と同じ時代。

冒頭に主人公の安西が着るコムデギャルソンのピーコートがそのことを如実に語ってる。ぼくもその頃はコムデギャルソン・オムのジャケットを羽織ってたっけ。

 

そして安西はいつものカフェで「ベベ」と呼ばれる青年に恋をする。

BGMは「おいしい水」。アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ジ・モライスの黄金コンビが作ったボサノバの名曲。

いろんなアーティストがカヴァーしてるんですが、やっぱりいちばん有名なのは、アストラッド・ジルベルトですね。

 

ぼくがアストラッド・ジルベルトを聞き始めたのも大学時代。いまも音楽を供給してくれる友人のY氏がつくってくれたカセットテープで。いま思えば、ちょっと背伸びしてたっけな。

そして、本のほうも、主人公の安西が背伸びするような設定。

ブラッサイ、ドアノー・・・バイト先は外国の写真集や文房具を売る店。店を経営するあこがれの女性、ナツコさんを真似して。

そして、そこへ現れる「べべ」。

ナツコさんと言い、べべと言い、どうも神戸の知人のイメージがオーバーラップするんですよね。1980年代っていう時代や神戸っていう場所は、そんなイメージを喚起するのかなぁ。

 

そして、ストーリィはこの年頃特有のきらりと一瞬輝くような恋。そしてあっけなく・・・

85ページの短い本。おいしい水をうまく味わえなかった頃を思い出し、もう一度読み返した。

「♪Agua De Beber  Agua De Beber Camera・・・」

「おいしい水」はジルベルトもいいんだけど、ピエール・バルーのもいいんだわなぁ・・・

 

 

 

 

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「わたしがカフェをはじめた日。」

2018-09-15 001.jpgはじめに断わっておきますけど、ぼくはお店をやる気は全くない。

こういうブログをやってるとよく言われるんですが、橋下徹流に言うと、2万%ない・・・なんて書くと余計にややこしいかも知れませんけど。

 

で、やる気がないにもかかわらず、こんな本を読んでみた、「わたしがカフェをはじめた日。」。

 

登場するのは京都にある7軒のカフェ。マニアックスター、ひだまり、雨林舎、つばめ、KAFE工船、チタチタ喫茶、喫茶ウズラ。

もちろん、ふつうのカフェでは、ない。

いや、ひょっとしたら、これらがふつうのカフェなのかもしれない、京都では。

この本の終わりあたりによしもとばななさんが寄稿してるんですが、その中で「人の家に行ったときの不思議さと気楽さと緊張をそのまま抱えて、京都のカフェは営まれている。」と書いてる。なるほど。言い得て妙。

 

とにかく、この本を編んだホホホ座っていうところが独自の視点で選んだカフェ。だから、そういう偏りはある。

そのうえ、このホホホ座、随所に載ってる挿絵も手掛けているんですが、どうもクセの強い鉛筆のドローイングなので、そのイメージで7軒ともに通底する何かがあるように錯覚してしまう。

 

で、この本の主題は、それら7軒の京都のカフェを営むそれぞれの店主(なぜかすべて女性)に、それぞれのカフェをはじめるまでの経緯や、開店を迎えた日のことなどをインタビューしてる。

ホホホ座のあとがきにもあるんですが、「今回の取材の過程で少しずつ気づいてきたことがあった。それは皆、ある日、突然変異のようにカフェに目覚め、その準備を始めているということ。子どもの頃からの夢ではない。社会に出て、初めてその存在が見えてくる夢。現実的な職業としての選択。カフェは、もしかしたら女性の自己表現の理想形なのかもしれない。」と。

 

べつに女性には限らないと思うんですがね。

 

 

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「箸持てば」

2018-08-15.jpgきのう、「百万円の束ほどのレタスをはさむ」なんていう素敵な表現が気に入ってるって書いた石田千さんの「箸持てば」。今月はこれです。

先々月は、牧野伊三夫さんの「かぼちゃを塩で煮る」でした。

この本がすこぶるよかった。

でも、牧野さんの本職は画家で、「暮しの手帖」の表紙や挿絵なんかを手掛けられてる方と言えば、その作風をイメージしやすいかも。

で、今月の「箸持てば」の表紙や挿絵は奇しくもその牧野さん。それだけでなんだか親近感が湧いてくる。

著者の石田千さんはエッセイスト。1968年生まれってことで、牧野さんやぼくらよりも少し下の年代なんですが、まあ、だいたい同じくらいの時代を過ごしてきたんかな。

だから、食やお酒に対するスタンスは、ほぼ一緒とまでは言わないけども、共感するところはかなり多い。

たとえば、こんな一節。

「・・・たまに残り野菜や鶏と牛のスープを作って、凍らせておく。・・・いずれもいいかげんなスープで、鶏は水炊き用のぶつ切り肉、牛はすじ肉。値段が手ごろで、あとで食べておいしい肉を選び、どうやって食べようかと楽しみに煮る。野菜は、ありあわせのその日次第。毎回、一期一会の味になるのでおもしろい。」

一期一会の味。ほんとにそんな感じ。そんな感じのエッセイが36篇。

それに彼女、三代前から日々の晩酌だけをたのしみに生きてきたっていうおすみつきの家系なんだそうで、あとがきにも、「箸もてば、いつかの夕方、いつかの乾杯。」とある。

日々の晩酌をたのしみのひとつにしているぼくにとって、彼女の紡ぐ“箸を持ったあとの、いつかの夕方、いつかの乾杯の話”っていうのがすんなりと入ってくる。

加えて彼女、大学時代から16年間、嵐山光三郎さんの助手を務めていたそうで、そういう意味ではこの間、食に関する文筆の修練を積んできたと言えなくもなさそう。 嵐山光三郎さんの「素人庖丁記」や「文人悪食/暴食」なんかを愛読してた身としては、氏の視点を受け継いでいる彼女の文章に惹かれるのも無理ないなぁって思う。

だから、きのうに紹介した「百万円の札束ほどのレタスをはさんだサンドイッチ」のほかにも、いろいろと琴線に触れるところが多くって、たとえばこんな一節も頗る気に入ってる。

「土鍋に水をはる。昆布を一枚、笹舟のようにそっと浮かべる。 出がけにそれだけしておくと、きょう一日を見とおせる。ちょっと一杯、寄っていこうよ。帰り道で誘われても、流しの舟がまぶたに浮かぶ。残念ですが、先約が。すんなり声にできる。 だれもいない部屋に、ゆらり広がっているはずの昆布一枚。律義でしまりやのおかみさんのように、待っている。それだけで、家路に迷うわけにはいかなくなる。」

丁寧なデッサンのような文章。

句読点や体言止めなんかが多くて、ゆっくりとした印象が拡がるんですが、この人案外せっかちかもしれない。そのせっかちな自分を弁え、つとめてゆっくりと言葉を運ぼうっていうような印象も受けるんですが、さあ、どうなんだろ。

まあ、いずれにしても、ぼくにとってはなかなかおいしい文章でして、またこんなふうなエッセイを書いてくれればなぁ・・・

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「季節の果実をめぐる114の愛で方、食べ方」

2018-06-15.jpgこの本を手に取ったのは泉大津の図書館で。
「季節の果実をめぐる114の愛で方、食べ方」。
このタイトルと、この表紙。
それでぼくがこの本を手に取るんだから、著者の思惑が素晴らしかったのか、それとも著者のちょっとした見込み違いなのか。

もともと、フルーツはそんなに。
むしろ、独身時代は甘いもの全般があんまり好きではなかったんだけど、つれあいと一緒に暮らすようになってから、彼女のフルーツ好きが感染ったのかもしれない。
だから、ぼくがこのまま独身を続けていたならば、きっとこの本を手に取るようなことはなかったと思う。
それが、手に取るばかりか、そのまま図書館のカウンターまで持って行き、少し恥ずかしがりながらも借りてしまうところまで行くんだから。
しかも、一度ならず、二度も。

長い文章があって、それを読む時間の都合がつかなかったわけでもない。
借りてる間、鞄のポケットに携行してて、時間が空いた時に思い出したように取り出してパラパラと眺める、繰り返し。

「いちごのガスパチョ」とか、「巨峰と揚げなすのマリネ」とか・・・
自身でつくるような料理じゃない、まったく。それでも惹かれるんですよね、この本、この画像。
フルーツって官能的ですよね。
かたちとか、そういうのじゃなくて、涼やかな佇まいっていうか。
だから、この本の画像には特に、してやられたってな感じ。

そのうち、また借りるかもしれない。
いや、勢い余って買うかもしれない、この本。
で、また、鞄のポケットに忍ばせておいて、時折思い出したように取り出してパラパラと眺める。
やっぱり、著者の思惑が素晴らしかったのではなくて、著者のちょっとした見込み違いに違いないわ、きっと。


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「かぼちゃを塩で煮る」

2018-06-15.jpg料理のエッセイが好き。
そのうえ、こんなブログを続けてることもあって料理のエッセイをよく読むんですが、その書き手によってすごく共感したり舌なめずりすることもあれば、全く食指が動かず、砂を噛むような気分になることもある。
で、今回の牧野伊三夫さんのは前者、しかも、どストライク。こんなどストライク、「笑う食卓」の立石敏雄さん以来ではないかな。

どストライク。
以前も書いたように、立石敏雄さん以外では、「最後の昼餐」の宮脇檀さんや「家で作れないものは外で食べて、店に負けない皿を家で拵えよう。」の木暮修さんなんかがそうなんですけど、今回の牧野さんは、前の3人と違ってぼくと同年代、もっと言うとこの日とぼくよりも3つほど年下ではないですか。
だから、前3人の話はどうも年長の先人のように読んでたんですけど、今回の牧野さんは、なにやら同じ目線の高さって感じで、距離感も非常に近く感じたわけ。
それでも、この方の腕前、並々ならぬものがある。それはもう、シロウト料理を究めんとする同志ですから、そのあたりの力量はほんとよく分かる。

それに「ビジネスホテルでの調理研究」や「散歩と献立会議」なんかの食欲の赴くままの筆の転び方など、まあ、こんな人が近くにいたらずいぶんと近しく好誼できるんやないかなと。

あと、蛇足なんですけど、文中にも出てくるサイモンとガーファンクルの名曲、スカボローフェアの「パスリ、セージロズマリーアン、タァーイム…」っていうくだり。
巻末の解説で鈴木るみこさんが、牧野さんの台所の調味料の棚に並ぶそれらのハーブのことを取り上げてるんですけど、鈴木さんは「パスリ、セージロズマリーアン、タァーイム…」たちって表現してる。
スカボローフェアの「パスリ、セージロズマリーアン、タァーイム・・・」っていうのは実は娼婦たちの名前だったと思うんですけど、鈴木さんの表現からすれば、さしずめ愛しき彼女たちっていう感じかな。やっぱりどうでもいいことですけど・・・


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「菊亭八百善の人びと」

2018-05-15.jpg大阪にも料亭がなくなった。
3月までお仕えしていたトップはしきりにそのことを嘆いてらっしゃった。
トップが言うのは、百貨店やホテルに出店し、今に息づいてる料亭ではなくて、いわゆる黒塀に囲まれ、数寄屋づくりの建物や丹精を尽くした庭まですべて味わうような、そんな料亭。
そんな話を何度も聞いてたので、最近なにげに手に取ったのがこの本、「菊亭八百善の人びと」。

物語の舞台となる八尾善は、徳川将軍家代々の御成りも仰ぎ、ペリー来航の際の饗応料理も担うなど、江戸文化の極みと謳われた料亭。
店を戦火で失った八百善に、戦後まもなく嫁いだ主人公の汀子は、やがてその再興に努めるが・・・っていうのがメインのストーリー。

著者の宮尾登美子さんは、うちのおやじおふくろと同い年なんだそうで、そういう意味で物語の口調や運びなんかは、なんか懐かしい感じがする。

で、物語は戦後の復興変化の中で次第に翳りゆく老輔を、同じく薄れていく江戸っ子の気性を織り交ぜながら描いていく。
でもって物語は滅びゆく江戸文化の最後の輝きと、その再生を遠望するかたちで終わってるんですが、汀子が言う再生の方向、「八百善の格式をくずさずに、現代感覚のあるお店」っていうのが、前のトップが嘆いてたようなところにつながっていくんかなと。

実際には、現在は、『割烹家八百善株式会社』が、八百善ブランドの江戸料理の高級惣菜、おせち料理等を提供し、数年前には料理屋を復活させたんだそうですが、どんな料理屋なんでしょ。
ま、こっからはぼくの空想ですけど、店のつくりは村野藤吾さん、いや、白井晟一さんがいいなぁ。まあ、どちらも鬼籍の人やけど。でも、間違っても隈研吾さんなんかにはやってほしくはないなぁ。

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