厨房男

こどもの頃に欠乏していた食の体験を取り戻そうとする厨房男の喰う・呑む・つくる・・・のはなし

「食をうたう」


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以前、食文化に関するレポートを書いたとき、原田信男先生にはたいへんお世話になった。

といっても、勝手に著作を読み漁り、いろいろと引用させてもらっただけのことなんだけど。

で、原田先生、日本の食生活史研究が専門領域なんだけど、大学院修士課程の頃、日本中世史の勉強に身が入らず、論文など放り出し、評論や詩集・歌集にばかり耽っていたそうで、本人知ってか知らずか、その著作からはそう言うところが滲み出てるようにも思う。

で、今回は、その原田先生が著した短歌や詩を題材とした食に関わるエッセイ。

文章って不思議なもんで、あとがきに、「おかげで、むかし読んだり集めたりした本を読み返し、この際にと思って、かつては手の出なかった詩歌関係書を、まとめて買い込んだりした。歴史の論文とは異なって、興味の赴くままに調べものをし、文章を楽しく書くという機会を毎月もてたことは幸せだった。」と書いてるんだけど、こうした愉しい雰囲気っていうのもやっぱり伝わってくる。

でも、楽しく書いてるっていう割にはその内容はすごく鋭い。本人は詩歌の単なる、しかも偏った愛好者にすぎないっていうんだけど、その内容には脱帽だわ。

 

で、先生が取り上げた数々の作家の中で、長田弘の『食卓一期一会』の冒頭には、「言葉のダシのとりかた」という詩で飾られている。

 

  かつおぶしじやない。/まず言葉をえらぶ。/太くてよく乾いた言葉をえらぶ。/はじめに言葉の表面の/カビをたわしでさっぱりと落とす。/血合いの黒い部分から、/言葉を正しく削ってゆく。/言葉が透きとおってくるまで削る。/つぎに意味をえらぶ。/厚みのある意味をえらぶ。/鍋に水を入れて強火にかけて、/意味をゆっくりと沈める。/意味を浮きあがらせないようにして/沸騰寸前サッと掬いとる。/それから削った言葉を入れる。/言葉が鍋のなかで踊りだし、/言葉のアクがぶくぶく浮いてきたら/掬ってすくって捨てる。/鍋が言葉もろともワッと沸きあがってきたら/火を止めて、あとは/黙って言葉を漉しとるのだ。/言葉の澄んだ奥行きだけがのこるだろう。/それが言葉の一番ダシだ。/言葉の本当の味だ。だが、まちがえてはいけない。/他人の言葉はダシにはつかえない。/いつでも自分の言葉をつかわねばならない。

 

この歌にはマイッタ。

 

そのあと、先生の解説が続くんだけど、詩歌に明るく、日本の食生活史研究を専門領域にしているだけあって、その面目躍如といったところ。

で、この長田弘さんには殊のほか思い入れが深いようで、巻頭にもこんなふうに引用してる。

 

 「長田弘の詩集『食卓一期一会』には、しみじみとした味わいのある作品が多く、本書にも何度か登場することになる。その「あとがき」に、彼は「食卓につくことは、じぶんの人生の席につくこと。ひとがじぶんの日日にもつ人生のテーブルが、食卓だ。かんがえてみれば、人生はつまるところ、誰と食卓を共にするかということではないだろうか」と記している。」

 

そして、「終章 逡巡の果てに」の最後にこんなふうに書かれている。

 

「これまで、詩人や歌人・俳人たちの食との関わりとこだわりを見てきたが、それらはあらためて『プレイバック』のフィリップーマーロウ風に言えば、「食べなければ、生きていられない。食べるだけでは、生きている資格がない」ということになろうか(清水俊二訳を改変)。

 このレイモンドーチャンドラーの巧みなレトリックに従えば、生きていくなかで、どのように食べていくのか、それこそが、さまざまな人生の味わいなのであろう。本書で取り上げた詩歌はそのほんの一端にすぎない。」

 

今回こんなふうに詩歌に接し、いろいろとその面白さに開眼したようにも思う。「取り上げた詩歌はそのほんの一端にすぎない」ということなんで、もう少し、この領域にも浸ってみようかなぁって思ってる。

 

 

 

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「百人一酒」

2019-04-15.jpg次の元号が「令和」に決まって、その出典といわれる万葉集の「梅花の歌」に、にわかに注目が集まってるようだけど、その作者といわれてる大伴旅人。同じ万葉集に、「酒を讃むる歌十三首」として彼の歌が残ってる。

 

この本の著者、俵万智さんは、この一連が大好きで、卒業論文にも登場させてしまい、そしてまた、この「百人一酒」でも取り上げてる。

 

験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし

(つまらない物思いをするぐらいなら、濁り酒を一杯飲んだほうがいいよなぁ・・・)

 

賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするし優りたるらし

(偉そうに物を言うヤツよりも、酒を飲んで泣いちゃったりするヤツのほうが、俺はマシだと思うよ・・・)

 

万智さんが取り上げる旅人の歌は、「梅花の歌」みたいな格調はないけども、万智さんの意訳がいいのか、グッと親しみが湧いてくる。

「一緒にお酒を飲んでみたい歴史上の人物」を選ぶとしたら、私はまず、彼をあげるだろうとも言ってるのも、さもありなんっていうところ。

 

と、この本、なかなかの酒飲みの俵万智さんが西へ東へ駆け巡り、今に昔に思いを馳せてさまざまに酒を飲み、味わう。

でも、マルゴーのヴィンテージを垂直に飲んだり、ドンペリのパーティに出かけたりと、ちょっとスノッブな感じもするんだけど。

ぼく的には、やっぱり缶チューハイ二杯のイメージがあって、その庶民的なイメージとはちょっと違うようだなぁ。

 

でも、牧水のこの歌をやっぱり取り上げてくれて、酒好きとしては嬉しいかぎり。

 

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ

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「食文化入門」

2019-03-15.jpgこのあいだまで、ひょんなことからレポートに取り組む羽目に陥ったのですが、どうせ書くなら食文化に関するレポートにしようと、わざわざこちらへ水を引っぱってきた・・・ていうのは以前にも書いたとおり。

で、あらためて食文化っていうのを考えるのに、まず繙いたのがこの本。

 

この本の著者、石毛直道先生は食を新しい学問として開拓した食文化の泰斗。ぼくに食文化というものの蒙を啓いてくれたわけで、いやもう、さん付けでお呼びするのもおこがましい。ここはもう先生と呼ばねばと思ってる。

 

で、その先生が言うには、食べることは「文化」だと。

「文化」っていうのは、生物としてのヒトに遺伝的に組み込まれた行動ではなく、人間の集団のなかで後天的に習得しなければならない行動。食欲は生物に遺伝的に組み込まれた本能でもあるけど、人間の食事は、他の動物の食事とは異なる側面がある。人間が「食べる」ということには、食物を生産し、加工し、あるいは食物を器に盛って食べる、食べかたを規定する食事作法などさまざまな事柄がつきまとってる。それらの食事にまつわる技術や食事においての人間のふるまいかたのおおくは、本能として遺伝的に伝達されることではなく、ヒトが生まれたあとに学習した、文化的な行為だと。

とはいえ、人類の食行動の変異の幅はきわめて広いわけで、その中ですべての人類に共通し、しかも人類史の初期にまでさかのぼれる事柄はなんであるかを考えたとき、「人類は料理をする動物である」というテーゼと、「人間は共食をする動物である」というテーゼにたどりつく。

「料理」は、自然の産物である食品の加工であり、食に関する物質的側面の話。一方の「共食」は、食べるという人間の本能的ふるまいに文化を付加することであり、食の社会的側面といえる・・・と。

でもって、ぼくは、この共食っていうところにすごく惹かれたわけ。もちろん共食っていうのは共食いではなくて、一緒にテーブルを囲むってこと。それが、家族であったり、異文化コミュニケーションの始まりであったり、あるいは、神と共に食を経験するっていうことであったり。

 

食に関する文化の研究は、食物史の分野を除いては,世界的にもあたらしい研究領域なんだそうで、先生が食文化の研究を開始した1960年代の終わりごろは欧米でも、食の文化的側面に関する研究は食物史の分野に関する事柄が主流で、文化人類学視点から人類の食を総合的に考察することは行われていなかったんだそう。

そうは言っても、先生が研究を始められてからほぼ50年が経過するわけで、その間の業績は膨大なものになると思う。

レポートを書くにあたって内外含めて数十冊は目を通したつもりなんですけども、そんなのまだまだほんの一部なわけで、あらためてこの領域の広大無辺なことに気付かされてくらいのもの。

七転八倒した割には、レポートの出来はまったくもって不本意だったっていうのはともかくとして、これを機会に食文化っていう領域を再認識できたっていうのはひとつの収穫と思いたい。

だから、この領域、これを機に少し、うろついてみようと思ってます。

  

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「食の社会学」〜パラドクスから考える〜

2019-02-15.jpg最近、ひょんなことからレポートを書く羽目に陥りまして、やたらに本を乱読してる。

だから、ブログで取り上げる本を読む暇もない・・・と書きたいところなんですが、実はそのレポート、食文化に関するレポートなんで、ブログとけっこう重なるところがある。

もっというと、どうせ書くなら食文化に関するレポートにしようと、わざわざこちらへ水を引っぱってきたっていうのが真相。

 

さて、そのレポートを書くにあたって読んだ本となれば、石毛直道やマイケル・ポーランなど、内外含めてもう数十冊にも上るんですが、いちばんおもしろかったっていうか、興味を引かれたっていうか、引用をいっぱいしたっていうのがこの本、「食の社会学」。「パラドクスから考える」っていう副題がついてます。

著者のエイミー・グプティル、デニス・コプルトン、ベッツィ・ルーカルは、いずれもニューヨーク州立大学やインディアナ大学で教鞭をとってる准教授。で、彼女らが「食」にまつわるパラドクスを切り口に、複雑化する現代の食文化のさまざまな側面を検証していく。言ってみれば若手の学者が、近年注目されている「食」をめぐるテーマをめぐり、人類学、社会学、地理学、政治経済学、歴史学といった知見を総動員して論じてるわけ。

章立ては、第1章が「食の社会学」で、この本の原則とこの本における“パラドクス”について、第2章「食とアイデンティティ」では、食べ物がなぜ個人や集団のアイデンティティの中心となるのかを、第3章「スペクタクルとしての食」は、豪華な料理を支える労働は非常に苛酷なことや、フードエンターテインメントを提供するメディアについて、第4章「栄養と健康」では、農業団体や食品産業の利益を保護しつつ、人々に栄養勧告を行う米国農務省の抱えるパラドクスを論じてる。

第5章「ブランド化とマーケティング」では、消費者主権と企業の影響力について、第6章「工業化される食」では、工業的に生産されるハンバーガーなどの食品の安さと、社会的・環境コストの高さというパラドクス、第7章「グローバルフード」では、国境を超え複雑化する食品供給網を論じ、第8章「食料アクセスの問題」では、食へのアクセスの不平等から余刺と不足が同時に起きているパラドクスを、そして終章の第9卓「食と社会変化」では、新たな価値を求めてフードデモクラシーというキーワードで締めくくられている。

 

このなかで、引用したのは、第2章と、第9章なんですが、むしろ引用したところ以外の、食をめぐるジェンダーやLGBTにおける食の分担なんかがけっこうおもしろいなぁと。

たとえば、ゲイやレズビアンのカップルでは、食事のしたくはカップルの間で平等に配分されていないそうで、にもかかわらず、ゲイのカップルでは、料理にあまり関わっていない男性が、自分は料理に関わっていると主張する。

これは、もう一方の男性の男らしさのイメージを強化しようとしているのではないかという考察がある一方で、レズビアンのカップルでは、食事の準備に関わることの多いほうは、そうではないほうの女性らしさを傷つけないために、自分の仕事を控えめに言う傾向があるんだそう。

こういう自分のテーマとは脱線したところにオモシロさが散らばってキラキラしてるわけ。

 

例によって、レポートはまだ七転八倒してるところなんですが、レポートを脱稿してからもう一度あらためて読んでみたいなぁ。

もっとも、この本、近隣の図書館にはなくて、わざわざ大阪府立の図書館から取り寄せてもらったんで、手続きがまためんどくさいんですけどね。

 

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「もものかんづめ」

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昨年、若くして鬼籍に入られたさくらももこさん。

正直に言うと、ふだんなら手に取ることもなかったんでしょうが、彼女の訃報に接し、あらためて、この本を読まねばって、なんでか思った。

で、そう思って図書館に予約したんですが、あっという間に数十人待ち。同じように思った人がやっぱり多かったんでしょうねぇ。

 

さて、彼女の代表的なエッセイ、「もものかんづめ」。このシリーズ、「さるのこしかけ」、「たいのおかしら」って続くそうなんですが、やっぱり読むなら処女作かなぁって。

で、内容はご想像だおり、ぼくがよく読む食べ物のエッセイでは全くなくって、漫画「ちびまる子ちゃん」さながらのぷぷっと笑えるネタが詰まってる。

でも、その行間というか、合間にフッと、なにやら達観した哲学者のような一面が覗く・・・ような気がする。いや、ひょっとしたら気のせいか。

 

しかし、日常の話から笑いを抽出することから、やりたい放題だった祖父が老衰で亡くなったのをネタに大笑いするっていう、「メルヘン翁」なんかは、実際に考えると、そうとうなタブーに踏み込んでの話ですから、ちびまる子ちゃんさながらのイノセントなセンスっていうのは計算じゃなくて、本能的、いや、やっぱり計算?

 

まあ、あらためて考えるとぼくらの手には負えない、そうとうなスケール。

それを感じさせずにスイスイと書き進んでいる(ように見える)っていうのは・・・

 

もう少し長生きしてほしかったなぁ。もちろん、ぼくのわがままだけど。

 

 

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「本のまとめ 2018」

早いもので、今月ももう中日・・・ていうか、ことし最後の中日やないですか。

というわけで、ここ数年、12月の中日には、その年に読んだ本のまとめをしてるんで、ことしも。

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1月 「忙しい日でも、おなかは空く。」

4月 「おいしい魚図鑑」

5月 「菊亭八百善の人びと」

6月 「かぼちゃを塩で煮る」

7月 「季節の果実をめぐる114の愛で方、食べ方」

8月 「箸持てば」

9月 「わたしがカフェをはじめた日。」

10月 「おいしい水」

11月 「豚キムチにジンクスはあるのか」

 

毎月読めば当然11冊あるところなんですが、2月に読んだ本がくだらなくって、こりゃイカンと焦ったんでしょ、思わず力んでしまって翌月もハズレ本を選んでしまった。

1月は手堅く平松洋子さんの本、「忙しい日でも、おなかは空く。」を選んだんですがね。

 

なので4月は、「おいしい魚図鑑」。とにかくパラパラ眺めてこりゃいいわって、すぐに判断できたんでね。といってもパラパラ見れば済むような絵ではない。あとでじっくりと堪能させてもらいましたが、とにかくファーストインプレッションでイイって判った本。

 

5月と10月は小説。「菊亭八百善の人びと」と「おいしい水」。

古い昭和なストーリーと新しい昭和なストーリー。

 

純然たるレシピ本っていうのは7月の「季節の果実をめぐる114の愛で方、食べ方」だけかな。

レシピ本って、ここではほんとに紹介しづらい。読むっていうのにレシピ本が向いてない、ていうか、ぼくがレシピ本を楽しく深読みする才覚に欠けてるのかな。

 

問題は9月の「わたしがカフェをはじめた日。」。

7軒の京都のカフェを営むそれぞれの店主に、それぞれのカフェをはじめるまでの経緯や、開店を迎えた日のことなどをインタビューした本なんですが、なんだかこれがミョ〜にオモシロイ。カフェっていいですよねぇ。

 

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そして、エッセイ。

6月の「かぼちゃを塩で煮る」、8月の「箸持てば」、11月の「豚キムチにジンクスはあるのか」。どれもこれもおもしろい。

食に関するエッセイなら何でもいいっていうわけではなくて、決してそうではなくて、おもしろいエッセイと面白くないエッセイは厳然とある。

まあ、ことしは2月、3月に空振りをしたせいか力が抜けて偶然アタリの3連発。

だから、ことしの1冊はその中から、「かぼちゃを塩で煮る」。

どストライク。

その時も、「こんなどストライク、「笑う食卓」の立石敏雄さん以来ではないかな。」って書いた。

 

あらためて振り返って、人生空振りも意味あるんだなぁって。

まあ、ずっと空振りっていうのも困りますけど。

 

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「豚キムチにジンクスはあるのか」

2018-11-15.jpg題名でやられましたね。

豚キムチにジンクスはあるのか、そんなのあってもなかっても別にいいんやけど、それでも、このネーミング、なんかそそられるんですわ。

著者は絲山秋子さん。

いままで読んでなかったけども、文學界新人賞、川端康成文学賞、芥川賞・・・スゴイやないですか。

でも、初めて手に取る本、「豚キムチにジンクスはあるのか」。

 

1作目の「力パスタ」からけっこうやられます。すこしネタバレかも知れませんけど、餅をバターで炒め、レトルトのイカスミパスタソースを加え、ファルファッレと和える。

これ、きっとうまいんでしょう。ぼくは敬遠したいですけど。

想像してみてください。小さめの皿に山盛りにしたら、まわりからこぼれる有様が産廃っぽくって悲惨だとか。

 

で、表題の「豚キムチにジンクスはあるのか」。

豚キムチにこんなジンクスがあるとか、あんなことがあったとか、そんな話はついぞ出なくって、結局、「真実の豚キムチに豚キムチを越えた意味はない。」なんていう結論に達するんですが、それまでのプロセスというか、よもやま話というか、それがなかなかオモシロい。

絲山さんは実は鬱なんだそうで、一時、「痩せすぎて尾てい骨が痛くて座るのも容易じゃない。」って言うほどにも体重が落ちたこともあったみたい。

でも、「その後どうなったかって? 復活して立派になりましたこのとおり。どうだこの腹、ぱんぱん。かなしい・・・・・。」なんて繋げる文が秀逸。句読点の位置、間の詰め方、さすがです。

 

とまあ、こういう感じのが24本。

ただ、絲山さん、料理が好きっていうのがすごくよく分かるんだけど、ぼくのような失敗も数々。まあ、それ自体がネタなんでしょうけど、それが余計に親近感を湧き立たせるんですよね。

 

しかし・・・、イラスト下手だなぁ〜、この人。

 

 

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「おいしい水」

2018-10-15.jpg1980年代の神戸を舞台にした19歳の女性の切ないラブストーリー。

 

著者は以前「ジヴェルニーの食卓」を紹介した原田マハさん。

彼女はぼくとたしかひとつ違いくらいだったので、彼女の描く19歳のラブストーリーは、まんまぼくの体験した19歳と同じ時代。

冒頭に主人公の安西が着るコムデギャルソンのピーコートがそのことを如実に語ってる。ぼくもその頃はコムデギャルソン・オムのジャケットを羽織ってたっけ。

 

そして安西はいつものカフェで「ベベ」と呼ばれる青年に恋をする。

BGMは「おいしい水」。アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ジ・モライスの黄金コンビが作ったボサノバの名曲。

いろんなアーティストがカヴァーしてるんですが、やっぱりいちばん有名なのは、アストラッド・ジルベルトですね。

 

ぼくがアストラッド・ジルベルトを聞き始めたのも大学時代。いまも音楽を供給してくれる友人のY氏がつくってくれたカセットテープで。いま思えば、ちょっと背伸びしてたっけな。

そして、本のほうも、主人公の安西が背伸びするような設定。

ブラッサイ、ドアノー・・・バイト先は外国の写真集や文房具を売る店。店を経営するあこがれの女性、ナツコさんを真似して。

そして、そこへ現れる「べべ」。

ナツコさんと言い、べべと言い、どうも神戸の知人のイメージがオーバーラップするんですよね。1980年代っていう時代や神戸っていう場所は、そんなイメージを喚起するのかなぁ。

 

そして、ストーリィはこの年頃特有のきらりと一瞬輝くような恋。そしてあっけなく・・・

85ページの短い本。おいしい水をうまく味わえなかった頃を思い出し、もう一度読み返した。

「♪Agua De Beber  Agua De Beber Camera・・・」

「おいしい水」はジルベルトもいいんだけど、ピエール・バルーのもいいんだわなぁ・・・

 

 

 

 

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「わたしがカフェをはじめた日。」

2018-09-15 001.jpgはじめに断わっておきますけど、ぼくはお店をやる気は全くない。

こういうブログをやってるとよく言われるんですが、橋下徹流に言うと、2万%ない・・・なんて書くと余計にややこしいかも知れませんけど。

 

で、やる気がないにもかかわらず、こんな本を読んでみた、「わたしがカフェをはじめた日。」。

 

登場するのは京都にある7軒のカフェ。マニアックスター、ひだまり、雨林舎、つばめ、KAFE工船、チタチタ喫茶、喫茶ウズラ。

もちろん、ふつうのカフェでは、ない。

いや、ひょっとしたら、これらがふつうのカフェなのかもしれない、京都では。

この本の終わりあたりによしもとばななさんが寄稿してるんですが、その中で「人の家に行ったときの不思議さと気楽さと緊張をそのまま抱えて、京都のカフェは営まれている。」と書いてる。なるほど。言い得て妙。

 

とにかく、この本を編んだホホホ座っていうところが独自の視点で選んだカフェ。だから、そういう偏りはある。

そのうえ、このホホホ座、随所に載ってる挿絵も手掛けているんですが、どうもクセの強い鉛筆のドローイングなので、そのイメージで7軒ともに通底する何かがあるように錯覚してしまう。

 

で、この本の主題は、それら7軒の京都のカフェを営むそれぞれの店主(なぜかすべて女性)に、それぞれのカフェをはじめるまでの経緯や、開店を迎えた日のことなどをインタビューしてる。

ホホホ座のあとがきにもあるんですが、「今回の取材の過程で少しずつ気づいてきたことがあった。それは皆、ある日、突然変異のようにカフェに目覚め、その準備を始めているということ。子どもの頃からの夢ではない。社会に出て、初めてその存在が見えてくる夢。現実的な職業としての選択。カフェは、もしかしたら女性の自己表現の理想形なのかもしれない。」と。

 

べつに女性には限らないと思うんですがね。

 

 

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「箸持てば」

2018-08-15.jpgきのう、「百万円の束ほどのレタスをはさむ」なんていう素敵な表現が気に入ってるって書いた石田千さんの「箸持てば」。今月はこれです。

先々月は、牧野伊三夫さんの「かぼちゃを塩で煮る」でした。

この本がすこぶるよかった。

でも、牧野さんの本職は画家で、「暮しの手帖」の表紙や挿絵なんかを手掛けられてる方と言えば、その作風をイメージしやすいかも。

で、今月の「箸持てば」の表紙や挿絵は奇しくもその牧野さん。それだけでなんだか親近感が湧いてくる。

著者の石田千さんはエッセイスト。1968年生まれってことで、牧野さんやぼくらよりも少し下の年代なんですが、まあ、だいたい同じくらいの時代を過ごしてきたんかな。

だから、食やお酒に対するスタンスは、ほぼ一緒とまでは言わないけども、共感するところはかなり多い。

たとえば、こんな一節。

「・・・たまに残り野菜や鶏と牛のスープを作って、凍らせておく。・・・いずれもいいかげんなスープで、鶏は水炊き用のぶつ切り肉、牛はすじ肉。値段が手ごろで、あとで食べておいしい肉を選び、どうやって食べようかと楽しみに煮る。野菜は、ありあわせのその日次第。毎回、一期一会の味になるのでおもしろい。」

一期一会の味。ほんとにそんな感じ。そんな感じのエッセイが36篇。

それに彼女、三代前から日々の晩酌だけをたのしみに生きてきたっていうおすみつきの家系なんだそうで、あとがきにも、「箸もてば、いつかの夕方、いつかの乾杯。」とある。

日々の晩酌をたのしみのひとつにしているぼくにとって、彼女の紡ぐ“箸を持ったあとの、いつかの夕方、いつかの乾杯の話”っていうのがすんなりと入ってくる。

加えて彼女、大学時代から16年間、嵐山光三郎さんの助手を務めていたそうで、そういう意味ではこの間、食に関する文筆の修練を積んできたと言えなくもなさそう。 嵐山光三郎さんの「素人庖丁記」や「文人悪食/暴食」なんかを愛読してた身としては、氏の視点を受け継いでいる彼女の文章に惹かれるのも無理ないなぁって思う。

だから、きのうに紹介した「百万円の札束ほどのレタスをはさんだサンドイッチ」のほかにも、いろいろと琴線に触れるところが多くって、たとえばこんな一節も頗る気に入ってる。

「土鍋に水をはる。昆布を一枚、笹舟のようにそっと浮かべる。 出がけにそれだけしておくと、きょう一日を見とおせる。ちょっと一杯、寄っていこうよ。帰り道で誘われても、流しの舟がまぶたに浮かぶ。残念ですが、先約が。すんなり声にできる。 だれもいない部屋に、ゆらり広がっているはずの昆布一枚。律義でしまりやのおかみさんのように、待っている。それだけで、家路に迷うわけにはいかなくなる。」

丁寧なデッサンのような文章。

句読点や体言止めなんかが多くて、ゆっくりとした印象が拡がるんですが、この人案外せっかちかもしれない。そのせっかちな自分を弁え、つとめてゆっくりと言葉を運ぼうっていうような印象も受けるんですが、さあ、どうなんだろ。

まあ、いずれにしても、ぼくにとってはなかなかおいしい文章でして、またこんなふうなエッセイを書いてくれればなぁ・・・

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